牛とお給料とジム

ある日、事務員のジムが浮かない顔をして「じろさん、相談があるんです」と言うのである。いつもニコニコ溌剌としてお茶を出してくれたり、「会社の仕事が少ないので暇です。もっと仕事を受注してきましょう」などと前のめりな感じで元気がいいのに、今回はしおらしい表情なのである。

「実は、来月には実家のあるチェンマイに帰らなくてはいけないんです。なので会社を退社したいのです。」という。実家でなにかあったのかと尋ねると「母が牛を飼いだしまして」。。

なにやら実家で牛を飼い始めたので、忙しいバンコクなどにいないで、田舎チェンマイでのんびり暮らしましょうということらしい。あまりに唐突かつ予想を越える関連性であるので、少々驚いて、お母さんが実家に帰ってきなさいというに至った経緯についてゆっくりと尋ねた。そうするともうひとつの理由が見えてきた。

それは、バンコクの会社に就職したものの、決して余裕のある給料でもなく、バンコクの生活も質実・清楚な生活である。なにかするにしてもバンコクの物価は高く、住みにくい。1日の食費を200B(600円)と換算しても月6000B(1万8000円)そこそこ。家賃や諸経費をいれると生活が苦しいということなのである。ならいっその事、チェンマイに戻って牛でも飼えば、のんびりと暮らしていけるだろうということらしい。

なので、「牛を飼ったから>田舎に帰る>会社をやめる」ではなくて「給料が安い>バンコクは暮らし憎い>田舎へ帰る」ということのようである。タイ人の特性として、相手の対面を大事にする為に、直接的なネガティブ原因を理由にあげないことがある。つまりは、「給料が安いので、会社やめます」では、決してないのである。しかし、原因が明確にならないと問題の解決がしにくいので、まあまあ戸惑うことになる。

この場合、「今の給料では生活が苦しい」ということであったので昇給することにした。入社して調度1年経とうとしているところだったので調度都合もよかった。会社に献身的で、自分から進んで面倒見のよさを発揮してくれる人材であるので、出来る限りの昇給を行い、それを前提に留意を促した。

最初は「この額面は、私には高すぎます」などと言っていたが、納得してくれた。

次の日、出社するといつもの満面の笑みを浮かべた事務員のジムが「おはようございます」とニコヤカに挨拶してくれた。パッリとしたOLスーツに身を包み、いつもよりテンションが高めである。いつもはお水を出してくれるのだが、その日は、お茶にお茶菓子がついてきた。前向きになってくれたようであった。


この記事は、2002年~2015年に雑誌掲載されたものに、加筆修正をしたものです。記述内容が当時のものであり、現状と違う部分が含まれています。